■中島家と巖華園の由来

 

 

 

 中島家祖先は遠く清和天皇よりの源家の名門足利氏なるべきも慶長年間徳川幕府は家康以前の 系図の煙滅を謀り当家も亦その犠牲となり慶長二年、時の足利義久改め中島主膳(以来中島家と して遠々現十五代に至る)と号したがその後松ヶ岡御所(東慶寺)直属となり金(貸付)方御用を勤め全く幕府の支 配を受けず苗字帯刀御免、敷台付大玄関を許され外出には引戸の駕籠を以ってしたのである。為に当時勤王の志士幕府の圧迫を逃れて当家に寄寓する者が絶えなかった。渡辺崋山、高野長英、 佐久間象山、西郷南洲の諸士を始めとし文人墨客の来り遊ぶもの其跡を絶たざる有様であった。 谷文晁、椿々山、疎林外史、高久隆古、立原任等の諸先生も常に往来していたのである。特に高 久隆古筆頼朝富士の巻狩の図極彩色巌緑使用動物武者人物屏風一双中に一万余を画き全面に赤金 白金の金砂子にて遠近を隆古自ら現施し其創作に実に六ヶ年の永年月を此巖華園に於て費し一世 一代の重大傑作を果したるものにて将に国宝級の此金屏風が現に巖華園に保存せられ居るは光輝 ある事実である(昭和三十五年栃木県重要文化財指定)。此の家を巖華堂(平成十六年国有形文化財登録)と名づけ一千余坪の築 山を巖華園(平成十八年国名勝登録)と命名したのは渡辺崋山先生の撰によるものであって築山の滝の落つる処渓谷を造っ て丸木橋を渡したのも崋山先生の意によって創作したもので甲州の猿橋を模し滝をば養老の滝と 称す。池に渡した石橋は谷文晁先生の創意に基き近江八景中の瀬田の唐橋、傍の老松は唐崎の松、 連なる植込は堅田の落雁を型り山腹の四阿は石山寺後方の連山は比良の暮雪に擬し、池中に突出 した岬に弁財天を祭りしは巌島を型ったものである。大東亜戦争後地方文化向上のため巖華園倶楽部として発足し、後に旅荘巖華園として一般に開放されて以来、作家檀一雄、坂口安吾、武田 泰淳、尾崎士郎、山本健吉の諸先生を始め、洋画家岡本太郎先生、俳優森繁久弥氏他多数の政界、 財界、文化人の去来をみたのである。


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